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合宿免許のココだけの話

私は本を読むのが嫌いな男だ。 極端ないい方をすると本というものは過去のことしか書いてない。
本を読むとそれにとらわれてしまって、なんだか退歩するような気がしてしまう。 私の人生は、見たり、聞いたり、試しで、その三つを勘案してこうあるべきだということで進んできた。
自分の疑問を解明するために本を読む必要があっても、本など開かず人に聞くことにしている。 そんな私に本を出せという。
私なんかの本が売れるかね”と聞いてみた。 ところが売れる自信のないものは作くません”と明快に答えられてさすがの私もちょっと寄り切られた態であった。
私はだいたい、本とか雑誌に自分でペンをとることはほとんどない。 私の不得手というよりは、そんな時間があったら機械をいじっていたほうが楽しいからである。
雑談することにかけては人後に落ちない自信があるので、対談やインタビューの形式によることが多い。 記事になってみると、私の真意が誤り伝えられることがしばしばであった。
他人が私をどう見ようがどう批判しょうが勝手だが私の真の姿を見ずしてかりいわれては心外である。 そういう意味もあって、多年にわたって発表されたものを一つに集め私の全部をさらけだし、そこに流れる私の哲学を汲み取っていただき大方の批判に応えるのもまた一法なく考えた。

内容に関しては、洗いざらいぶちまけたので、時間的なズレや叙述の不揃いなど不備な点が多々あるが、その点は読者の皆さまの御寛恕を切にお願いする次第である。  数年前になるが、私は『スピードに命を賭ける男』というアメリカ映画を見た。
そのときの感動はいまだに忘れない。 もっともその感動は、私なくのものであって、多くの人々に理解してもらえるかどうかはちょっと疑問である。
自動車レースに生命を賭け、それに生き抜こうとする男の物語は五十歳をすぎた今日でも、まだまだ若い気持ちでいる私の血を燃え上がらせるに充分であった。 事実、肉体的にも私がもっと若く楼刺としていたら私はこんなふうに映画の話などしていられないかもしれない。
自分でさっさと競走用自動車をぶっとばしていたに違いない。 映画のなかで主人公を演じた男の不敵な面魂は自分でいうのもおかしいが、元気な時代の私自身を妨沸させるようで、私は気に入った。
あのような男がもし実社会に生きているとしたら、ガソリンの匂いが好きでたまらない私の趣味がほんとうに理解してもらえるだろう、と思わずにはいられなかったことをはっきくと記憶している。 競走用自動車とオートバイの差こそあれ、その生き甲斐に差異はないと思う。
耳たぶを切る風の音、逆転する風景、全く「血わき肉おどる」という形容が、そっくり当てはまるのである。 それでいて、細心の神経を必要とする、この競技は真に男性的なものなのだ。
まだ、私は自分の人生を顧みるというような大げさなことのできる年齢には達していない。 人生五十年、教訓もなく劇的な波潤もなかった。
ただ平々凡々、オートバイのエンジンに取り組み、他愛のない悪戦苦闘をつづけてきただけである。 それでいて、ただ一つだけいえることは一本に打ちこめる仕事をしつづけてきたということである。
映画の主人公が叫んだ言葉に、私の最も気に入った言葉があった。 『私と競走と、どちらを選ぶ?』と愛人に迫られたとき、彼がこたえた言葉である。

『自分が競走に打ちこんでいるのは何も記録との闘いでもなければ競走相手と争っているのでもない。 俺は俺の生命を相手に闘っているのだ。
競走に出なくてどこに俺の生涯があるのだ!』 そうだ。 私もまた自らの生命を命じるが、生きてきたのであり、これからも生きていくであろう。
明治三十九年(一九〇六)、浜松市に近い、磐田郡光明村の鍛冶屋の件に生まれた私は、鉄をうつ鎚の音を子守唄に育った。 今日になっても騒音のなかに生きている私だが私には、けたたましい音が身についている。
その昔が私にぴったりしたものなのだろう。 物心がつくかっか屑鉄を折りまげ、訳のわからぬものをこしらえ、私はいとも満足していた。
好きな悪戯には時間など気にならず着物の袖は垂れ落ちるはなこするのでいつも合成樹脂でぬりかためたように真里だなっていた。 「冬などカチンカチンになるので、おかしいやらで、叱れなかった!」と、母はよくその当時の私を思い出して苦笑する。

学校、あがる前のことであった。 私の家から六キロほど離れたところに精米屋さんがあった。
ここには当時としては珍しい発動機があった。 私は阻父に背負われて、その精米屋さんによくつれていってもらった。
そのころから私には、その精米屋さんの発動機の動く音が無性に好きだった。 実に、なんともいえないほどよいリズムだと、子供心にも感じていたようであった。
石油のもう一種独特のあの匂いも私にはたまらなく気に入った。 やがて、私は山東小学校、正しくは山東尋常高等小学校に入った。
その学校は男女共学であった。 当時の思い出として私の記憶にあることをいえば、悪戯をして叱られたことばかりである。
学問のほうは、さっぱり駄目だったが機械いじりだけは大好きであった。 あるときは他人の西瓜畑、悪童仲間としのびこみ西瓜に手が入るくらいの穴をあけ中味だけ食べおわると穴のほうを地面にして伏せておく この手で、西瓜は飽きるほど食べたものであった。
そんな悪戯がいつまでつづくものではない。 西瓜畑の持ち主から父のほう、抗議がきて、目の玉がとび出るほど怒られた。
また、小学校、の行き帰りの途中に清海寺という寺があって、寺の境内にカヤの木や柿の木があく、季節になると実がなる。 私たちはその柿やカヤの実をとりに行ったものであった。
そんなことから日ごろから私たち悪童仲間は住職からにらまれていた。 たしかあれは四月八日の『お釈迦様』 の日だった。
お寺のお祭りだというので大勢の参詣者にまじってお寺、行くととうとう住職につかまってしまった。 「ちょっと来い」というのでついていくと住職は本堂の地獄絵の前に私たちを座らせ、「お前たち、嘘をついて、悪いことをすると、こんな日にあうのだぞ」とえらい剣幕で訓戒された。

見れば、針の山を血だらけになってのぼる亡者や、釜ゆでにされる亡者の姿など物凄い絵が措いてある。 以来私は本能的にお寺が嫌いになった。
カヤの実とくや柿泥棒の悪戯はやまなかった。 その冒もカヤの実をねらってお寺、行くと、住職がどこかに隠れていたのだろう。
私たちの姿を認めるといきなく大声でどなった。 私たちはびっくりおして逃げ出したが前日の雨で地面は泥棒に変わっていたので、高下駄ではどうにもならない。
とうとう高下駄をぬぎ、ハダシで逃げ出したことがあった。 また、そのカヤの木に蜂の巣があるというので、私の考案でそこに花火を仕掛け、うまく蜂の巣を爆破したまではよかったが、その爆発音を聞きつけた住職にまた追いかけられ、ほうほうのていで逃げ出した。
私たちがこのような悪戯をやめなかったのも住職につかまる心配は絶対なかったからかもしれない。 というのは、住職は足が悪かったからである。
私はもう尋常科の二年生になっていた。 大正三年(一九一四)の秋だったと憶えている。
家から二十キロほど離れた浜松歩兵連隊に飛行機がきて、飛んで見せるという噂を聞いた。 私は、なんとかしてその飛行機というものを見たりてしょうがなかった。

合宿免許を笑って続けよう!合宿免許は無限の可能性に満ちあふれています。
合宿免許のココだけの話をしましょう。珍しい合宿免許のご紹介です。
合宿免許の関連事項を調査、研究するとともに、合宿免許信頼性向上を図るための方策を定め、これを積極的に推進します。