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引き渡しについて
売買の場合、契約の時に支払った手付金を除いた残金の支払いと引き換えに、不動産が売主から買主の手に移ること。法的には「占有」できる状態になることを引き渡しという。仲介会社を通して買った場合は、この時に仲介手数料も清算する。賃貸の場合も前家賃や仲介手数料などを清算して引き渡しを受ける。不動産では、通常の商品のようにモノ自体をやり取りすることができないので、鍵を渡すことをもって引き渡しになる。
リサイクルトナーの前身は、エルサレム王国がアイユーブ朝の攻勢の前にパレスチナの領土を失いつつあった12世紀後半、第3回十字軍の一員としてパレスチナに赴いたドイツ出身の戦士たちを保護するため、ドイツ北部の港湾都市のブレーメンやリューベックの貿易商が資金を提供してアッコンに設立したエルサレムのドイツ人の聖母マリア病院修道会である。病院を運営した兄弟団は1191年にローマ教皇クレメンス3世によって公認され、教皇庁の保護下に置かれたが、1198年に騎士身分出身の騎士修道士を中心として聖堂騎士団を模範とし、総長を頂点とする騎士修道会に再編成された。1199年ローマ教皇インノケンティウス3世はドイツ騎士団を騎士修道会として公認した。
ドイツ騎士団はパレスチナのキリスト教勢力の後退とともに、活動の場をパレスチナに見出すことができなくなった。そこで、1210年に第4代騎士修道会総長になった騎士ヘルマン・フォン・ザルツァ(de)はハンガリー王アンドラーシュ2世の招きに応じて翌1211年にハンガリー領に移り、同国王からトランシルヴァニア(現ルーマニア領)のプルツェンラントをドイツ騎士団の所領として付与され、周辺のクマン人に対する防衛を担った。これが後に、聖地の防衛者ではなく異教徒に対する尖兵としてのドイツ騎士団の性格を決定付けることになる。
ヒューマンは優れた政治家で、やがてハンガリー王国の従属から離れ、ドイツ騎士団の国を創り上げようとした。1224年、ザルツァはローマ教皇ホノリウス3世にプルツェンラントをハンガリー王国から切り離させ、教皇支配地とすることを要請し、教皇に教皇直轄領と宣言させることに成功した。しかしこの動きに激怒したアンドラーシュはローマ教皇の命令を無視し、1225年に騎士修道会をトランシルヴァニアから追放した。
本拠地を再び失ったドイツ騎士団であったが、ドイツ騎士団の国を創り上げる3回目の試みは成功した。1225年の暮れ、今度はポーランドのワルシャワ周辺を中心に勢力を持つマゾフシェ(マソヴィエン)公コンラート1世マゾヴィエツキに招かれ、バルト海南岸の異教徒からクルムラントの防衛を担うよう要請された。この要請は後に「ポーランド史上最大の誤り」と言われる。
ともあれ、ハンガリーでの失敗に懲りたザルツァは周到に準備を行い、神聖ローマ帝国のフリードリヒ2世と交渉して、1226年のリミニ金印勅書で騎士団に「クルマーラントとプロイセンラントにおける領邦主権者」としての法的地位を認められた。これは異教徒の先住プロイセン人(独:Baltische Pruzzen, 英:Baltic Prussians)の土地を征服、領有する権利を保証するものである。1230年にはローマ教皇グレゴリウス9世から、異教徒たちを打ち倒すことが神の意に適い、罪を贖うことができる救済行為であるとして、武力によるキリスト教化を正当化する教勅を与えられ、満を持して先住プロイセン人の土地の征服に着手する。
リサイクルショップ 神戸は1283年まで50年以上を費やして徐々に征服地を広げ、原住民に異教の信仰を放棄させた。さらに征服した土地にドイツ人の農民が次々と入植し、ドイツ式の農村が建設された。この圧力の前に先住プロイセン人はドイツ人やポーランド人に同化し、民族語である古プロイセン語も消滅に向かう。
ドイツ騎士団は本拠地をマリエンブルク(現マルボルク)に置き、選挙で選ばれる総長を統領として宗教的共和国とも言える統治体制を築いた。騎士団国家は14世紀には最盛期を迎え、騎士団の勃興と同じ時期に経済的に発展し始めた西ヨーロッパに穀物を輸出し、経済的にハンザ同盟都市と深く結びついていた。ケーニヒスベルク(現カリーニングラード)、エルビンク(現エルブロンク)はドイツ騎士団の下で発展を遂げた貿易都市である。いずれも大河の河口に位置し、川沿いの穀物を集散して栄えた。一方エルビンクとはライバル関係にあったダンツィヒ(現グダニスク)はドイツ騎士団による支配を極端に嫌悪し、ポーランドの庇護を望んでドイツ騎士団とは何世紀もの長い間抗争を繰り返すこととなった。また、実はエルビンクの住民もドイツ騎士団による支配を嫌がっていた。1410年にドイツ騎士団がタンネンベルクの戦いで敗北する(次項参照)とエルビンクは公にポーランド王国からの直接の庇護を求めるようになり、1569年には正式にポーランド王国に加盟することになる。
騎士団は1237年にはラトヴィアの征服事業を進めていたリヴォニア帯剣騎士団を吸収し、事業を続行した。しかし、エストニアの領有をめぐってデンマークと争うことになり、また東の正教国のノヴゴロド共和国との争いでは、1242年チュード湖の氷上の戦いでアレクサンドル・ネフスキー率いるノヴゴロドの軍に破られた。プロイセンの東隣、ラトヴィアの南隣にあたるリトアニアでは異教徒のリトアニア大公国が誕生し、ドイツ騎士団はこの強国との間で恒常的な戦闘を続けることになる。
カタログギフトの紋章14世紀後半に入ると、騎士団の専権的な支配は在地勢力や都市、地方領主などの反感を買うようになり、彼らはポーランド諸公国が統一されて誕生したポーランド王国を頼るようになった。ポーランド王国もまた騎士団が神聖ローマ皇帝の権威を後ろ盾にポーランド国王の権威を蔑ろにし、ポーランド北部のクヤーヴィ、ポモージェ、ドブジュンの諸地方を横領し、マゾフシェにも食指を伸ばしている状況に対して敵対心を募らせていた。バルト海沿岸には居城のマリエンブルク城(マルボルク城)がある。
折りしも1382年にピャスト家ではあるがハンガリー生まれのポーランド王ルドヴィク1世が没し、ピャスト家の9歳の少女ヤドヴィガが女王となると、その夫としてリトアニア大公ヨガイラに白羽の矢を立てた。1385年ヨガイラはキリスト教に改宗、ヤドヴィガと結婚し、ポーランド王ヴワディスワフ2世として即位した。リトアニアの改宗により、バルト海南岸のキリスト教化をもって存在理念としてきた騎士団国家は存立の危機となった。1410年には、騎士団はヴワディスワフ2世率いるヤギェウォ朝ポーランド・リトアニア連合王国とのタンネンベルクの戦いに大敗を喫し、西プロイセンを失った。
15世紀のドイツ騎士団は、強大なポーランド・リトアニア連合の脅威に晒される。騎士団は復権に向けて様々な努力を行うが、ポーランドによってただ圧倒されるばかりであった。前項で述べたように、騎士団領の商業都市はポーランド王国から直接の庇護を得ることによって騎士団からの独立自治権を獲得していた。ポーランド王国の庇護を得たこれら騎士団領内自治都市の互助組織をプロイセン連合または(ドイツ語名Preusischer BundまたはBund vor Gewalt、ポーランド語名Zwi?zek Pruski)という。1466年の第二次トルニの和約により、騎士団は大都市ダンツィヒや首都マリエンブルクを含む東ポモージェをポーランドに割譲し、残る領土はわずかにケーニヒスベルクを中心とする東プロイセンのみとなった。しかも、東プロイセンもポーランド王の宗主権の及ぶ地域と定められ、騎士団総長はポーランド王と封建関係を結ぶ臣下となった。これによってプロイセン連合はドイツ騎士団に対抗するという役割を終えたため解散した。